日本の或る地方の農民

 日本の或る地方の農民は、極めて手のこんだ背い子を編む。だけれども、それは現在その地方でも実用には使われていないという風なものを蒐集して、仮に客間の壁にかけて置くという趣味が、果して美しさに敏感な心と云えるだろうか。 又、外国の宮殿を見ると、よく支那の間とか、トルコの間とかいう室がつくられている。すっかりその国の特色あるもので装飾されて一室をなしている。そういうところを眺めていると、過去の世紀の権力の表現方法やその様式というものが、絵巻のようにまざまざと甦って来て、あくどい思いがする。 いろんな国の品物のいろいろな面白さのよろこびで一つ二つのものが、家のあちこちにひょい、ひょいとあるのは自然にうけられるけれど、家具調度一式琉球とか朝鮮とかいうところのもので埋める趣味があるとすれば、その一つ一つがもっている美しさとは、いつしか別物なはためには何々の間と相通じたものとなって映る一種特別な感覚もあり得る。 生活の中にあるものの美しさは、それが巨大な機械類であると、小さい日用品の類であるとにかかわらず、そのものが生きて働く目的を十分示していて、その充実感が美に通じているべき筈のものだろうと思う。 一つの御飯茶碗がここにあるならば、それは色と云い形といい、いかにもそこへ御飯をよそって食べて見たいと感じさせる。そういう直接で溌溂としたものでありたい。それを作ったひと一人だけの趣向だけが強調されているものは、道具類だと猶更重苦しいと思う。 この意味で、美しいもの、という観念が私たちの生活のなかでもっともっと贅肉のとれたものとならなければならないだろう。ものの美しさは、生活の裡で時、場合、人にかかわりあって来るその流動において感じられ、とらえられるもので、なければなるまい。何が美しいかということに関する固定した知識が伝統からもたらされるとすれば、どんな時どういう風に美しくものを使ってゆくかという感覚こそ、今日の中から新しい美をつくり出してゆく潜在力となるものだと思う。 日本の衣服についての再吟味が初まって幾何かの時が経っているが、婦人の衣服の改良案などが一つも訴えて来るものをもっていないのは、やはり改良して行こうとする心の動機に、弾力がないからだと思う。単一化そうとばかり方向がむけられていて、人間は働き、そして休みくつろぐものであるという、生存の根本のリズムがつかまれていない。平日と式日という風にだけ頭が向けられていてそれを何とか一つもので間に合わそうと考えられている。それでは美しさも、凜々《りり》しさも生かせまい。

— posted by id at 01:58 pm  

T: Y: ALL: Online:
Created in 0.1637 sec.

http://bigforums.org/