日本人の現代生活

 日本人の現代生活を、想像し得る人間生活の理想といふ標準から観察してもよい。また、それとは別に、国際的な視野から、諸外国、殊に欧米諸国民の生活の形態、様式と比較してみてもよい。そこに様々な問題が生れて来る。われわれの生活のなかに、どんなすぐれた要素が取入れられてあるか、また、如何なる点で、弱点を暴露してゐるか、そして、いつたいどうすれば、われわれの「生活」がわれわれの「生存」にとつてマイナスとならぬやうにできるのか? その答へは決して簡単ではない。議論百出も予想しなければならない。しかし、この危機感の上になつた「生活への関心」でなければ、私たちは、それがたとへ美的なものであらうと、科学的なものであらうと、或は更に道徳的なものであつてさへ、なにか中心をはづれた枝葉末節の問題のやうな気がするのである。

 われわれはまづ現在の日本人の生活全般のなかに、根本的な欠陥を見出す。これをひと言で云へば、われわれの「生活方法」は、われわれを不必要に「疲れ」させるといふことである。そしてその疲労の結果が、われわれの大多数を野蛮に追ひ込んでゐる。無秩序、猿真似、不潔、卑俗がこれである。 われわれの現在の「生活方法」は、どうしてわれわれを不必要に「疲れ」させるのか? ここでいちいちその原因を数へあげることはできぬが、その原因の大きなひとつは、生活の実体とその従属的部分との均衡がとれてゐず、しかも常にバラバラにそれが営まれてゐるといふことである。最も非能率的で不健康な生活をさほど意に介せず、それでゐて、世間への義理を果すとか、人前を飾るとか、気晴しに金のかゝる物見遊山をするとか、しかもそのうへ、やれ教養をつけるの、やれ趣味を解するのと、いろいろな負担に精力を費してゐる。さういふ生活全体の表情はまさに奇怪そのもので、民族としての品位をどれだけ傷けてゐるかわからない。

 私は自分のさういふ生活が、自分だけの責任だとは思はないが、さういふ生活しかできぬやうに育てられ、周囲ともさほどかけ離れてゐないのをよいことにして、実は、いつかうにその改革に着手してゐないものゝ一人である。が、たゞ、これだけのことは、いまでも公言できると思ふのは、いはゆる「趣味の浮きあがつた生活」で自分を誤魔化すまいといふ決心をしてゐることである。いはゆる「趣味生活」なるものの、なんとなく味気ないものであることを人一倍感じる私は、「よい趣味」で全生活を作りあげる能力が現在の日本人にはないのだといふ確信をいつの間にか抱くやうになつた。それは、「趣味生活」と呼ばれるもの、乃至は、「生活」のなかの「趣味的」な要素が、多くその在り方によつて私の眼には一種の「悪趣味」と映るからであつて、そのために、私個人の生活は「趣味的」な要素を努めて強調しない方針であり、自分の審美眼を誇るやうな装飾品を排し、すべてどこにでもあるやうなものゝうちから、たゞ我慢のならぬものだけを除いて、ごく気楽に日用品を撰ぶことにしてゐる。 それは時としてあまりに殺風景にみえることもあるらしく、家人は最初憂慮の面持ちであつたが、私は、現在のところ、これ以上のことを考へるのは無益であることを説き、「無趣味は悪趣味に優る」といふ消極的美学を主張した。

— posted by id at 02:23 pm  

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